――5――


 いつの時代も――安息とは、乱されるためにあるんじゃないだろうか。


 あの日――文に結婚を申し込まれた日――からこちら、文は毎日僕の病室に顔を出すようになった。
 なんでも、仕事は辞めてしまったらしい。
 彼女のあまりにも迅速かつ重大な行動に僕は大層驚き、そんなことをしても構わないのかと問うた。
 文はいつものように微笑って、大丈夫ですよ、と答えた。
 しかしそれでも気になってしまい、更に深く問い詰めたところ――彼女はこんなことを言ってのけた。
 「両親に、話をしたのです。呉葉さんという方と結婚します、と。すると――父も母も烈火の様に怒ってしまって。父など、文の結婚相手は自分が決めてやる、そんなどこの輩とも分からぬ青二才にお前は預けられぬ――と言うのです。おかしいですよね・・・父が気付いていないとはいえ、家柄でいえば――無論家柄など私には関係無いのですが――呉葉家の方がうちよりも遥かに名のあるお家なのに。私、なんだか悔しいような、悲しいような、そんな変な気分になって――つい、怒鳴ってしまいました。私の結婚相手は私が自分で決めます、と。私もまだまだ子供ですね――」
 マッタク、無茶なことを言う人だと思った。でも、そんな無茶な部分を含めて――文らしいな、とも思った。
 そして、一息ついて彼女は続けた。
 「それでも、あまりに駄目だ反対だと言うものですから――認めて頂けないなら、仕事を辞めて毎日でも宗一さんに会いに行きます、と――」
 そこで、彼女は僅かに赤面して目を逸らした。
 なんでも、文の家はこの辺りではなかなかの名家で、彼女一人が働かなくなったところで生活に大きな支障をきたすことはそう無いらしい。以前より服などからそういった雰囲気は見て取れたのだが、文もその母親も働いているといった状況から、勝手に普通程度の家庭なのだろうと思い込んでいた。
 よくよく考えれば、このご時世に母親――というよりも妻――が倒れたからといって、こんな大きな病院に入院させるなどそうそう容易にできることではない。
 そんなわけで――僕も彼女の強い意思を止めることはできず、厚かましくも毎日彼女が来てくれるのを楽しみにしている状態なのだ。
 平穏な日々だった。
 僕の病状は、好転こそしないものの、それほど悪化することもなく落ちついているように思えた。それは文さんが毎日看病してくれるからではないか、などという考えがふと浮かぶ。その度に満ち足りた気分になった。

 そして、暑さも絶頂に達する、八月。

 その日も、僕は一人、病室で文が来るのを心待ちにしていた。
 明日は林檎をお持ちしますね、と言う、昨日の文の笑顔が思い出される。僕は、そんな高級なもの頂けませんと言ったが、病人は黙って甘えていて下さいと窘められてしまった。
 ――なんだか、尻に敷かれそうだな。
 そう思ったものの、それでもやっぱり仕合わせな気分になってしまう。
 と、僕がそんなことを考えていると、不意に激しい音と共に病室の扉が開いた。
 「そ、宗一さんっ」
 「あ、文さんか。吃驚しましたよ。如何したのですか」
 文は走ってきたのであろう、肩で息をしている。そして、その顔には恐怖にも似た――悲しげな表情が張り付いていた。
 「宗一さん、ラヂオは・・・お聞きになられましたか」
 「いや、ここにはラヂオは無いので・・・」
 「昨日、宗一さんの御実家の長崎に――」

 「――ピカドンが落とされたそうです」

 「え・・・」
 一瞬、彼女が何を言っているのかよく分からなかった。
 ピカドン・・・つい数日前に広島に落とされたという、米軍の新型爆弾。
 僕も、話には聞いたことがあった。なんでもその威力は絶大で、一つの都市を壊滅させるに充分な破壊力を持っているという。
 細かい情報はまだ流れて来ないのだが――これにより、日本の敗戦は決定的になると僕は感じていた。
 それが、その新型の爆弾が長崎に投下された。
 僕の中に、ジリジリと厭な痛みが広がっていく。
 胸が焼ける。
 「そんな・・・」
 それだけ言うのに、どれだけの力を使ったのだろう。僕の背中と額には大量の汗が浮かんでいた。
 長崎――。
 僕の育った街。
 そして、両親の住む街。
 僕が大嫌いだった街。できそこないの僕を嫌った街。
 その長崎が――ピカドンという爆弾によって、壊された。
 頭の中にぐるぐると故郷の街並みや人々が甦る。
 幼い頃遊んだ公園、商店街。数少ない友達の顔、そして仲の良くなかった父と母。
 厭なことも良いことも、全部が僕の中を駆け巡っていく。
 心臓の鼓動が早くなる。息が荒くなる。
 嗚呼、酸素が足りない。
 胸を掻き毟り、動悸を抑え込もうとする。が、上手くいかない。
 「宗一さん・・・」
 そんな僕を、文は優しく抱き止めてくれた。
 「何故・・・っ、どうして、長崎に・・・」
 ぼろぼろと、みっともないくらいに涙が溢れて止まらない。
 どうしてだろう。あんなに嫌いだったのに。もう、二度と帰りたくなかったはずなのに。
 どうしてこんなに悲しいのだろう。
 「宗一さん、落ち着いて・・・落ち着いてください。お体に――障ります」
 ぎゅう、と強く僕を抱く文。
 僅かに震える彼女の手にこめられた力の強さに、僕は少しずつ――少しずつ我に帰っていった。
 荒い呼気だけが、部屋に響き渡る。
 そして僕は、最後に一度、大きく息を吐いた。
 「――落ち着かれましたか」
 「ああ・・・だいぶ。ありがとう」
 とは言ったものの、僕の頭が未だ混乱状態に近いことは間違い無かった。
 不思議なものだ。普段は忘れよう、忘れようと思っていた故郷なのに、破壊されたと聞くとこんなにも胸が痛い。
 今は戦争中なのだ。こんな事態を考えなかったわけでは無い。しかし――心構えをしていたわけでも無い。
 心のどこかで、自分に縁ある土地はこの戦争と別世界なのだと――そんな甘いことを考えていたのかも知れない。
 「ついに――帰る家が、失われてしまいました」
 ぼそりと呟くように、文に言葉を投げかける。
 文は黙って、椅子に座って麦わら帽を握り締めていた。
 「実家の方に――御両親とも、居られたのでしょうか」
 彼女が、訊き難そうに唇を動かす。
 「ええ、おそらくは・・・。父は色々と忙しい人間で、よく東京の方に出向いたりもしていたのですが――何があってもお盆には家に帰る、というのが僕と交わした約束だったので・・・」
 僕が家にいなくても、キット父はこの時期には帰っているだろう。
 複雑な思いが去来する。
 「・・・・・・」
 「あまり、夫婦仲は良くなかったようなのですが、それでも――父は、僕には良くしてくれていたのです。だから、お盆と正月くらいは宗一の顔を見に帰ってくるぞ、と・・・」
 言っていて、不覚にも再び涙が零れた。
 父のことは、好きではないはずだった。よく家を空け、母を泣かせることも少なくなかった父。権力に支配されたかのように目の色を変えて仕事に打ち込んでいた父・・・。
 どれも、厭な思い出でしかない。
 それなのに――。
 『お盆と正月は、何があっても帰ってくるぞ。私は今も、そしてこれからも宗一の喜ぶ顔を見るために働いているのだからね――』
 遊びに行く約束も、母と仲良くする約束も・・・よく反故にしていた父が、唯一守った幼い僕との約束。
 この時ばかりは、よく泣いていた母も満面の笑みを浮かべていたことを覚えている。
 良い、両親だった。
 そう思って、自分が如何に愚かであったかに気付く。
 完璧な両親だとは言えない。しかし、少なくとも――僕のことを本気で心配して、思いやってくれていた二人。子供にとって、これ以上のことがあるだろうか。
 なのに、僕は――。
 どうしようもない喪失感と、それに比例する後悔の念が僕の腹の中に渦巻いている。今にも嘔吐してしまいそうだ。
 「本当に――良い、両親だったのですよ――」
 そんな最後の言葉と共に、僕は全身の感覚を失った。
 気絶する直前、文の柔らかな両腕と、
 「分かっています」
 という優しい音を、感じた気がした。


 それから僕の病状は、日々目に見えて悪化していった。
 まるで――父と母の後を追うようですね。
 僕がそう言うと、文は切なそうな顔をして僕を叱ってくれた。
 担当の老医師は、辛くなる今後の闘病生活を薬による死という形で回避するやり方もある、と進言してくれた。もちろん違法だがね、と付け加えられたのは言うまでも無い。
 しかし、僕はその申し出を丁重に断った。
 残された僕の時間は――全て文に捧げた。その文が、精一杯に生きろと言ったのだ。ならば――例え苦しくとも、自ら死を選ぶような真似をするわけにはいかない。
 最期の、その一瞬まで、僕は文と一緒にいようと思っていた。
 そして・・・願わくば、死を迎えるのは彼女の腕の中で――。
 「・・・気をしっかりお持ち下さい。まだ――まだ、諦めてはいけません」
 僕の左手を強く握る文は、今日もいつものようにそう言葉をかけてくれる。
 返事をするのも億劫な僕は、目だけでそれに答えた。
 とはいえ・・・もう長くないことは、僕自身が一番良く分かっていた。
 そろそろ、最期の時を迎えなければならない。これは、ずっと前から分かりきっていたことなのだ。
 八月十四日。
 僕は多分、今日死ぬ。
 担当医に告げられた予定通りの展開。
 否、最後の数週間は、思っていたよりも随分楽であった。これは――文に感謝しなければならない。
 とにかく、今日一日生き抜くことができるかできないか、そんなところだろう。
 僕は、機能を止めかけた肺から空気を搾り出し、言った。
 「文・・・さん。あの場所へ・・・行き・・・ましょう」
 あの場所――。文と二人で行ったあの場所。文から結婚を申し込まれた、あの丘。
 本当は・・・夜に、綺麗な星空を見に行きたかったのだけれど。やはり、あの願いはかなわなかったようだ。
 「あの場所、ですか」
 少し驚いた顔をして、文が訊き返す。僕は僅かに頷いた。
 「・・・・・・」
 難しい顔をして、彼女は思考を巡らせる。そして、数秒後。
 「わかりました。貴方をおぶってでも・・・連れて行ってあげます」
 文はそう答えてくれた。
 僕は、早速ゆっくりと起きあがる。それもままならず、結局は文に助けてもらいながら、ようやく立ち上がることができた。
 左手に松葉杖を持ち、右肩を文に支えてもらいながら、僕らはあの場所へと歩き出した。
 途中看護婦に止められかけたが、事情を知る別の看護婦が全てを認めてくれた。
 今日は、頗る調子が良い。
 他界するならばこんな日に逝きたいものだ、などとくだらないことを思った。
 今の僕は――文の助けを借りながらではあるが――歩ける程の状態であった。
 丘へと続く坂道も、時間をかけて少しずつ上っていく。
 これには流石に泣きそうになったが、文の励ましのおかげで、なんとか上り詰めることができた。
 ――そして、僕のとっておきの場所が眼前に広がる。
 「――着きましたね」
 文は、そう言って僕を大きな桜の木の根元に座らせた。そして自分もその横に腰を下ろす。
 「ふう、いつ来ても――ここは素敵です」
 「ああ・・・」
 「今日も、良い風が吹いていますね」
 「ああ・・・」
 「お体の具合は、如何ですか」
 「ああ・・・」
 おざなりとも取れる僕の返答に、一つ一つ嬉しそうな顔を見せる文。
 キット、彼女も既に悟ったのだろう。
 彼女には、何も隠しごとなんてできやしない。
 ――文の言葉が、途切れた。
 僕は・・・挨拶をしようと思う。
 最愛の人へ、別れの挨拶を。
 「あや・・・さん」
 震える、声。
 痛い、肺。
 だけど、僕の声帯はかろうじて音を発して。
 「はい、何でしょう」
 そんな僕に、何故か、彼女はこちらを振り向かずに答えた。
 「今まで――あり・・・がとう」
 語尾が、かすれる。
 「いえ・・・私の方こそ・・・」
 「最期に・・・こんな、こんな・・・素晴らしい妻といられて・・・僕は仕合わせに・・・思います」
 「・・・・・・」
 ゴホッ、ゴホッ、と、咳き込む。
 それでも僕は、言葉を続けた。
 「あや・・・さん。・・・僕は、僕は・・・精一杯に、生きたよね・・・」
 「・・・・・・ええ。宗一さんは・・・誰よりも強く、生きましたとも」
 「そう・・・か」
 「ええ・・・ええ。私が・・・保証致します。貴方は、本当に強く、精一杯に・・・生き抜きましたよ」
 「そう・・・か」
 まだ、彼女はこちらを向かない。少しだけ、寂しくなる。
 「あ・・・や、さん」
 「はい・・・何でしょう」
 「だったら・・・いつものように・・・微笑って、おくれ」
 ぴくり、と彼女の肩が震えるのが伝わってきた。
 「そう・・・ですよね。約束でしたね。貴方が強く生きるなら、私は・・・いつでも微笑いましょう、と――」
 そして、ようやく・・・文がこちらを向く。

 「ねえ、あなた。私は・・・上手に、微笑えて・・・いるかしら」

 その頬は、涙に濡れて。
 瞳は真っ赤になっていたけれど。
 「・・・ああ・・・上手く、微笑えているよ、文・・・」
 口元は痙攣する程度に吊り上がっただけで、眉根には皺が寄ったままだったけれど。
 目の前の僕の妻は、誰より美しく微笑っていると思った。
 急に、胸が痛くなる。
 「ゴホ、ゴホッ・・・うぅ、あ、文・・・」
 咳と共に、血液の味が口中に広がる。
 「はい・・・何、でしょう・・・」
 「ぼ、僕を・・・強く、抱き締めてくれないか・・・」
 「はい・・・はいっ」
 僕の前から、覆い被さるようにして文は僕を抱き締めた。
 暖かな体温が僕を包む。
 嗚呼・・・心地良い。まるで春のようだ。
 おや、目の前・・・僕らが寄りかかる大きな桜の木の枝。
 「ほら・・・薄紅の花が・・・見えるね」
 「見えますか・・・桜の花が、見えますか・・・」
 ああ見える、と言うと、文は一層その顔を僕に近付けた。
 「そんなに・・・顔を寄せると、血が・・・顔に付いてしまうよ」
 「構うものですか。貴方の血です。貴方の生きた証です。喜んで、受けましょう」
 口元に流れているであろう血液に躊躇することなく、彼女は頬をすり寄せる。
 「あや・・・」
 「はい」
 「あ・・・や・・・」
 「はい・・・はいっ・・・はいっ・・・っ」
 嗚呼、意識が遠くなる。僕は、可能な限りその名を呼び続けよう。
 嗚呼、視界がぼやけていく。最期の一瞬まで、僕はこの人を見詰めていよう。

 そして、世界は暗転した。

 『文・・・・・・あり・・・が・・・とう』





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