肌を刺すほどの熱光線が、窓から降り注ぐ。それに伴い、部屋の気温はぐんぐんと上昇するばかりだ。
窓から吹き込む風は決して弱くはないが、それでも心地良さを感じるには物足りないと言わざるを得ない。
――季節は、夏。
僕が終わる、終焉の夏。
死の足音は・・・少しずつ、しかし確実に僕へと近付いていた。
「宗一さん、今日はお散歩に行きませんか」
その日、文は唐突にそう提案した。
「散歩・・・」
「ええ」
口元に微かな笑みを湛えた少女は、真っ直ぐに僕を見詰めていた。
――断れるはずが無い。
走ったりするのはもう無理だが、散歩程度なら――なんとかなると思う。
「あ・・・もしかして、外出はお医者様に禁止されているのですか」
僕が僅かに躊躇する様子を見て、文は少し残念そうにそう言った。
「いや、そんなことはありませんよ」
医者には、もうさじを投げられている。今更、あれは禁止、これも禁止などと言われることは無い。
「ただ、少し億劫だっただけです」
「まあ」
冗談めかした僕の言葉に、大袈裟に呆れたような声を上げてみせる。
「それじゃあ、早く行きましょう」
いつまでも座ったままの僕の手を取って、彼女が催促する。いつになくはしゃいだ様子が、たまらなく可愛らしかった。
――しっかりしているとはいえ、やはりまだ少女なのだ。
そんな目の前の少女を、守ってやりたいと思った。
しかし、それは所詮かなわぬ妄想・・・。
「ほら、宗一さん。しっかり立って下さい。歩くのが辛かったら・・・私が杖になりますから」
ふらふらと危なげに立ちあがった僕に、肩を貸しながらそう言う。嬉しい反面、どうしようもなく情けなく思えた。
「どこに・・・行くのですか」
照れを隠すように、僕はそっぽを向いてそう尋ねた。
「くす・・・。お散歩にあてなどありませんわ」
「はあ・・・そんなものですか」
「ええ、そんなものです」
ゆっくりと、時折彼女の肩を借りつつ、僕等は病院の庭へと出た。
正午を過ぎたはずなのに、太陽はまだまだ高い。眩しい光が、本当に久しぶりに僕の全身を照らしていた。
あたりには特に何も無い。何も無いからこそ、ここは近所の子供たちの絶好の遊び場だった。今日も例外ではなく、数人の子供たちが走りまわっていた。
「子供は・・・元気ですね」
思わず、そんな年寄りじみた言葉が漏れる。
「ええ、元気ですね・・・。子供は風の子、と申しますし」
「僕も・・・昔はあんな風だったのでしょうか」
「ふふ、そうかも知れませんね」
元気に走りまわる子供達。僕はその中に夢を預けるように、ただ黙って見詰めていた。
僕の代わりに。
せめて――この子達には、仕合わせが在ります様に。
「宗一さん・・・余程、子供が好きなのですね」
「・・・どうでしょうか・・・自分でも、よく分かりません」
「キット――好きなのだと思いますよ」
僕はそんなつもりで見ていたわけではないのだが・・・文がそう言うなら、そうなのかも知れない。
「願いを、かけていたのです」
「・・・・・・」
唐突の僕の言葉に、文は驚くことも無く黙って聞いている。
「この子達に仕合わせが在るように、と・・・」
「仕合わせが・・・」
「ええ・・・。こんな時代ですからね。僕でなくとも、明日の保証なんて無い。でも・・・この子達には、戦争のことなどよく分かってもいないこの子達には――何の責任も無いじゃないですか」
足元が、ふらつく。咄嗟に僕は、隣に立つ文の肩を掴んだ。丁度、右手で彼女の方を抱き寄せたような形になる。それでも僕は、言葉を止めなかった。
「だから、彼等には・・・何の心配も要らない世界を生きて欲しい」
「宗一さん・・・」
急に抱き寄せられたからだろうか。文は僅かに態勢を崩した。
息が、僕の首筋にかかる。
「だ、大丈夫・・・ですか」
「ああ、すみません・・・ちょっと、足がふらついて」
「い、いえ・・・お気になさらず」
珍しく、文が慌てている。
悪いな、と思いながらも、そんな彼女がどこか微笑ましかった。
態勢を立て直す。文は、僅かに顔を赤らめつつ、僕を支えてくれていた。
「せ・・・戦争はっ・・・」
無理に、気を取り直そうとする様が伺える。
「戦争は・・・悲しいですね」
「ああ・・・悲しいね」
切なげに目を伏せて、文は続けた。
「日本も、敵国も・・・キット迷走しているんです。最初は何か目的があったのかも知れないけれど・・・相手を傷つけて、捕虜にして、殺して・・・だんだん、自分たちが何をしているのか・・・分からなくなっているのです」
「うん・・・」
僕は何も言わずに、ただ続きを促した。
「だから・・・今の戦争は、互いの迷いと迷いがぶつかって、自壊していく姿だと・・・そう思います。良いことなんて、一つも無い・・・」
――迷いと迷いがぶつかって、自壊していく姿。
なるほど、文らしい、優しさのこもった意見だと思った。
相手を倒さねば、自分が殺される。やられる前にやれ。そんな疑心が――迷いが、惨状に一層拍車をかけているのだろう。
遣り切れなくなった。
そんなつまらないことで、罪も無い人々が争って、血を流して・・・。
目の前に在る、こんな小さな仕合わせさえも、奪い尽くしてしまう。
「早く・・・終わると良いね」
「ええ・・・そう思います。これ以上、人が死ぬなんて・・・悲しすぎる・・・」
文が、そんなはっきりとした意見を言うのは・・・初めてだった。
いつも一歩引いていて――言い換えれば、自分の意見を少し隠しながら僕と話していたように思う。
だから僕には、今の文がとても喜ばしく感じられた。
「そ、そうだ文さん」
でも、やっぱり今の泣きそうな顔を見続けるのは何だか遣る瀬無い。僕はそう思って、言葉を発した。
「はい」
「病院の裏に、良い場所があるのです。行って・・・みませんか」
「良い場所、ですか」
「ええ。とっておきの場所ですよ」
「・・・はい・・・行ってみたいです」
そう言うと、文は先程の悲しげな表情が嘘だったかのように、優しく微笑った。
「こっちです」
今度は、僕が彼女の手を取って歩き出す。わざとらしい明るさがばれなければ良いのだが。
「くす・・・。そんなに急がずとも、その場所は逃げはしないでしょうに」
「いや、逃げるのですよ。何せ僕のとっておきですからね」
自分で言っていてよく意味が分からない。
「ふふふ・・・宗一さん、何だか子供の様です」
・・・それから、歩くこと五分弱。
僕等は、例の丘の上にたどり着いた。
あまり高いとは言えないが、周囲を見渡すには充分な高さ。そしてぽつんと立つ大きな木。
最初に来た時から、ここに文を連れて来ようと決めていた。
「ああ・・・風が気持ち良い。本当に、素敵な場所ですね」
「あはは、気に入って頂いて何よりですよ・・・といっても、僕の土地じゃあないのですがね」
文は、ふふ、と笑って辺りを見回した。
僕は、太陽の光を避ける様に木の下に隠れる。
こんなに暑いのに、幹は何故かひんやりしていて・・・それが何とも心地良かった。
「あっ」
不意に、文の声が聞こえた。
彼女の方を向くと、視界に麦わら帽が飛びこんで来た。いつかのように、僕はひょいとそれを捕まえる。
「はい、帽子」
駆け寄る文に、僕は帽子を差し出した。
「有難うございます。これで・・・二度目ですね」
「ああ。気を付けなきゃ」
「ふふ、そうします・・・」
そこで彼女は、ふう、と息を吐いて、僕の側の木に寄りかかった。
「大きな桜・・・何だかひんやりしていますよね」
「これ・・・桜なんだ」
「はい、おそらく」
桜なんて、薄紅色の花をつけていないと分からない。
「本当に、素敵な場所・・・」
「そうだね」
「ねえ、宗一さん・・・」
「・・・何ですか」
「結婚、したいのですが」
「へっ・・・」
突然の言葉。理解ができない。
慌てている僕を見詰め、文は続ける。
「私を娶って頂けませんか」
「な、そ、ちょっ、そんな・・・」
一体文は何を言っているのだ。
あまりにも無茶苦茶な言動に、僕はただ混乱するばかりだった。
「私では、駄目でしょうか」
「いや、そ、そんなことは無いのだけど」
僕は、ちょっと待ってくれ、と言って深呼吸した。
今ので一気に肺が悪化したような気さえする。全く、何を言い出すんだ。
「だって、文さん・・・どうして突然、それに僕なんか・・・」
「私は、宗一さんをお慕い致しております」
彼女は、いつものように微笑って、はっきりとそう言った。
「・・・宗一さんは・・・私のことがお嫌いなのでしょうか」
今度は、少しだけ不安そうに上目遣いで僕を見る。
猫の様な瞳に見詰められ、僕は肺にいつもと違う痛みをおぼえた。
混乱した頭を、必死で整理する。
――僕は、文のことが好きだ。それは間違いない。だから、彼女がそう言ってくれるのを本当に嬉しく思う。
しかし・・・事はそんなに簡単ではないのだ。
「僕も・・・文さんのことは愛しく思っています・・・でも」
「でも・・・」
「僕には、将来が・・・無い。貴女を、仕合わせにできない」
・・・そう。
僕に未来は、無い。
そんな僕と一緒になるのは・・・文のためにならない。
「だから、ごめん。僕は――文さんと夫婦になることはできません」
「・・・どうしても、ですか」
「はい。それが文さんのため、なのですよ。僕に同情してくれるのは嬉しいですけれど・・・文さんには、文さんの仕合わせを掴んで欲しいと思います」
「では――」
文は、僕の瞳を真っ直ぐ見詰める。
「では、何故そんなに悔しそうな顔をするのですか」
何故、悔しそうな顔をするのですか。
――嗚呼、見抜かれてしまった。
「それに、私は同情などしていません。そう前にも申したはずです。・・・私は、ただ貴方のことを愛しているから。いつも一緒にいたいから。だから・・・」
今日の文は、どこかいつもと違う。
先程からそう思っていた。キット・・・このことを話そうと最初から決めていたためだったのだろう。
女性らしく、控えめに。そんな文の思想とはまるでかけ離れたこの申し出。文にしてみれば一大決心だったに違いない。
そんな文の気持ちに素直に応えられない自分が・・・堪らなく情けない。
「僕は――もう直ぐいなくなる人間だ。それでも・・・良いのかい」
「構いません。私は、可能な限り・・・貴方を愛していたいのです」
「文さん・・・」
あの文が、ここまで言ってくれている。
あとは、僕が覚悟を決めるだけだ。
その覚悟さえもできない、弱い人間には・・・なりたくない。
「僕の身体は、もうすぐ無くなってしまうけれど・・・」
僕は、文の真っ直ぐな瞳を、しっかりと見詰め返した。
「その、残り僅かな時間の全て・・・受け取ってくれますか」
二人の視線が、絡まる。
文は、満面の笑みで答えた。
「はい、喜んで。・・・私も、私の全てを・・・捧げましょう」
――覚悟。
文のこれからを、少なからず縛りつけてしまうことに対する、覚悟。
文を傷つけてしまうことへの、覚悟。
彼女は、僕を欲してくれた。
だったら・・・僕も、残った僅かな時間の全てを、彼女に捧げようと思う。
それが――彼女の未来に影を落とす覚悟を決めることが、僕の最後の・・・そして精一杯の誠意なのだ。
――ねえ、文さん。僕はほんの少しだけでも・・・強くなったよね。
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