それから文は、三日に一度ほどの頻度で病室を尋ねて来るようになった。
「こんにちは、宗一さん――」
「ああ、いらっしゃい、文さん」
彼女の母親は、過労で倒れたという。しかし、いざ病院で細かい診察を行ってみたところ、今まで耐えていたのが不思議な程に悪い部分が見つかったそうだ。
「お母さんの様子は――如何でしたか」
「はい、あの人は――平気だ、直ぐにも退院する、と言って聞かないのですが――」
幸い、命に別状は無いらしい。しかし、それもこのまま大人しく入院していれば、という但し書き付きの話だ。
「気丈な人なのですね――」
「ええ。悪いことではないと思うのですが・・・命に関わるとなると、話は別です」
その母にしてこの子有り。僕はそう思った。
彼女の気丈なところは――母親譲りだったらしい。
「あまりにも無理を言うので、つい――叱り付けてしまいました」
「はは。でも――そのお母さんの気持ち、分からなくも無いよ」
「・・・ええ、私もです」
言って、文はいつものように微笑んだ。
そう。今は戦争中なのだ。女性であろうとも――否、女性であるが故に、やらねばならぬ勤めは増える。
倒れても不思議ではないし、倒れたからといって甘えていられないと考えるのもまた不思議ではない。
「それでも――やはり、母には休んで貰いたいのです」
そこで彼女は、膝の麦わら帽に視線を落とす。
「母の居ない分は、代わりに私が埋めようと思っていますから」
「そうですか・・・しかし文さん、貴女まで倒れないようにしてくださいね」
「はい。お心遣い――有難うございます」
そして、今日も僕達はダラダラとくだらない話をした。主には僕が見ることのできない外の話、そして文自身の話であった。
彼女は最初なかなか話そうとはしなかったのだが、僕にはこの病室のこと以外に話の種が無いのを知ってからは、ポツリポツリと話すようになっていた。
女学校での話。今の生活の話。そして両親、兄弟の話。
楽しそうに話す彼女を見て、僕はまるで自分のことであるかのように嬉しくなるのだった。
――それは何も、彼女が恵まれた環境にあるからではない。今の時代、特別恵まれた環境と言うのはそうそう無いのだ。
キット、彼女が前向きだから。明るさを忘れない人だから。だから――こんなにも素敵に微笑えるのだろう。
人の幸せは、その人自身が決めるのだ。
焼け野原に生まれようと、裕福な家庭で育とうと――精神が健全ならば、本人が納得しているのならば。それが、幸せなのだろう。
この日――文は、いつもより少し長めに僕の話し相手になってくれた。
一人。
決して広いとは言えない病室の中で、僕は一人。
文が来ない日は――孤独がよりクッキリとした輪郭を持つようになっていた。
彼女は――最初に出会った時の印象のままの人だった。
凛として、強くて。それでいてどこか・・・少しだけ儚げで、控えめで。
彼女の話を聞く度に、そして彼女の笑顔を見る度に――僕は彼女に惹かれていった。もう、誤魔化しようも無い程に。
そう、だから、だからこそ――。
一人が、痛い。
そして、死が怖い。
一切の光が入って来ない病室で、僕は膝を抱えて震えている。
もし、今目を閉じたとして――次の朝にもう一度開けることができるのだろうか。
文の笑顔を、見ることができるだろうか・・・。
そう考えると、眠りすら恐ろしい。
・・・彼女は、頻繁に見舞いに来てくれる。そう、三日に一度もの頻度で。
三日に一度――あと二日も会えぬのか。
僕は、いつの間にかそう考えるようになっていた。
文に会えぬ日は、酷く長い。そして怖い。
――やはり、眠れない。眠れるはずが無い。
布団からのそりと起きあがる。
散歩でもすれば――気が晴れるだろうか。
しかし、もし看護婦に見つかったら、叱られてしまうな。
・・・そんなこと、どうでも良いか。苦笑混じりにそう思う。
僕は、外出用の草履を履いて、静かに窓から外へと出ていった。
そして外から自分が住む病院を眺める。暗くなった病室の中に、一つだけ灯りの点いた部屋があった。看護婦の詰め所だ。夜勤の彼女達は、眠ることなく朝を迎えるのだろう。
そんな彼女達に見つからぬ様、細心の注意を払いながら外を歩く。
月明かりだけを頼りに、僕は病院の裏手の丘へと出た。初夏の空気はややねっとりとしていたが、風が吹けば充分に心地良い。
これから――どんどん暑くなっていくのだな。
六月が、もうすぐ終わる。七月になれば厭になるほど暑くなるに違いない。そして――八月。
僕は、この夏を乗り越えることができるのだろうか。
老医師は僕に言った。次の夏を越えることができるかどうか――と。
あと、二ヵ月。
あの先生がそうまで言うということは、キット間違いないことなのだ。その証拠に、日を重ね、気温が上がっていくのと共に僕の呼気も弱くなってきている。
そして・・・この呼吸が完全に止まるまで、あと二ヶ月。病状が思った以上に軽くても、恐らく三ヶ月も生きられまい。
一度は、覚悟を決めた。
しかし、その覚悟はいまや完全に崩れ去ってしまっていた。
――文さん・・・。
僕は、丘の上に立つ大きな木に寄りかかりながら、空を見上げた。
星座のことは分からぬが、綺麗な星空だということは間違い無い。数多の星が、僕の頭上に降り注いでくるかのようだ。
いつか二人で、こんな星空を見たいと思った。
しかし、それはキット叶わぬ願い――。
僕は、あまりに美しい、存在せぬ未来の思い出を胸に抱き、いつもとは異なる痛みを感じていた。
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