――2――


 昼下がり。
 僕は、特にすることも無く布団の上に寝転がっていた。
 ――外界では、男でなくとも朝夕を問わず働かねばならぬこのご時世に、なんと贅沢なことか。
 昭和二十年。今は、右も左も「お国の為に」と頑張っているというのに。僕はこんなところで――何をしているんだろう。
 そう思う度に、自分の不完全な体が厭になる。
 それは何も戦地へ赴き、戦いたいというわけではない。ただ、こんな隔離された病室に居るようでは、自らを投げ捨てる覚悟で戦っている人々に顔向けできないと――そんなところだ。
 しかし。
 この病室が外界とは隔てられているからこそ、気付く現実というものもあるのだ。
 それは――そう、この日本の狂気。
 今の日本は、間違い無く狂っている。
 お国という名の蜃気楼に突き動かされ、自分の命すら躊躇わずに差し出す。もし個人がそれを拒もうとしても、世間は決して許しはしない。
 どこにも、お国なんていうモノは存在しないのに。
 気付いているのかいないのか、皆はそれにただ盲従するばかりだ。
 だからといって、僕がそんな人々を見下しているわけではない。彼等も、そうしなければ生きていけないのだ。軍の上層からの命令に逆らうことなどできはしない。
 そもそもそれ以前に、逆らおうとすら考えないような「教育」が為されているのだ。
 曰く、天皇陛下は神なり。我等は、神を守る神の子供である。
 曰く、日本は神の国なり。ここぞという時には必ずや神風が吹き、我等に勝利をもたらすであろう。
 子供の頃からそう教え込まれてきた。これはある種の呪いだ。僕のように――社会から隔絶でもされない限り、解けることは無いであろう。
 遣り切れない――。
 素直にそう思った。
 と、その時。
 こつん、こつん、と耳慣れぬ音がした。察するに窓の方からのようだが・・・。
 こつん、こつん。
 まただ。
 僕はのそりと起き上がると、窓の外へと目をやった。
 「あ――」
 思わず声を上げる。
 そこには――昨日の少女が居た。
 昨日と同じ麦わら帽を被って、微笑んでいた。
 僕は慌てて窓の方へと歩み寄る。
 「き、昨日は――どうも」
 「ええ。お約束通り――参りました」
 開け放った窓の網戸越しに、少女は軽く会釈した。
 「わ、わざわざすみません」
 あまりの動揺に、頓珍漢な言葉が口を突いて出る。何と恥ずかしいことだろう。
 そんな僕の挙動を笑うことなく、少女はただ、たおやかな瞳で僕を見詰める。
 ――嗚呼、この少女の周りだけ、空気が微眠んでいる。
 そう思わせるほど、涼しげで穏やかな印象を受けた。
 「あの、その・・・そんなところではなんですから。こちらに――病室の方にいらっしゃいませんか」
 「あ・・・でも・・・」
 一瞬、少女の顔が曇る。躊躇――といったところか。
 僕は、少し焦りながら言った。
 「いえ、その、心配は無用です。僕の病は、感染するような類のものではありませんし」
 「あ、申し訳ありません。そのような意味ではないのですよ」
 くすっと微笑う少女。その表情は・・・どこか、恥らっているようなものだった。
 「病室とはいえ――殿方のお部屋にお邪魔するのは初めてのことなので、つい」
 「ああ――そうでしたか。これは、僕の方が軽率でした」
 「いえ、お気になさらず。考えてみれば、ここからお話しするのも随分と失礼なことですし。それでは――今、そちらに参りますね」
 「は、はい」
 そして、少女は会釈をして正面玄関の方へと回っていた。
 少女の姿が窓から見えなくなって、僕は、それまで忘れていた呼吸をようやく再開したかのような気分になった。
 そしていつの間にか――僕の頭からは、「戦争」や「お国」といった言葉達が消えて無くなっていた。

 「失礼します」
 言って、少女は来客用の椅子に腰掛けた。麦わら帽を取り、膝の上に置く。
 今日の服装は――所謂ワンピイスと呼ばれるものだ。上品な薄い青。胸元には赤い花の刺繍が入っている。
 良く分からぬが、キット高価なものなのだろうな。
 「ええと。あ――その」
 僕は、相変わらず言葉を失っていて。
 少女を目の前にして、何を話せば良いのか、皆目見当もつかぬ状態であった。
 「もし――」
 そんな僕の状況を察してか、少女が先に言葉を発する。
 「もしよろしければ、お名前をお聞かせ願えますか?」
 「あ」
 そう言えば、僕等は互いの名すら知らないのであった。ただ舞い上がるばかりの自分が、少し恥ずかしくなる。
 「ぼ、僕の名は――宗一。呉葉宗一と申します。年は19――ついこの間、この病院に入院したばかりです」
 「くれは――そういち、さん。素敵なお名前ですね」
 ゆっくりと反芻するように言って、微笑む。世辞かどうか真意は掴めぬが、とても出来た人だと思った。
 「私は、水島文と申します。今年、高等女学校を卒業致しました」
 「みずしま、あや・・・さんですか」
 「はい。文、と――お呼び下さい」
 「わ、分かりました。僕も――宗一で構いませんので」
 ・・・とは言え、まだ会って間も無い女性をいきなり名で呼ぶことなど――僕にはできそうにもなかった。
 僕は、女性とまともに話したことなど数えるほどしかない。
 幼い頃から、女と話せば直ぐに女々しい奴めと罵られる――そう思っていたのだ。
 「宗一・・・さん」
 「はい」
 「つかぬことをお伺いしますが・・・ここには、どのようなご病気で・・・」
 「ああ・・・」
 その質問で、僕はハタと現実に立ち戻った。
 ――どんなに浮かれても、それはスベテ限りなく短い時間制限付きなのだ。あとほんの僅かの時間で、僕は――全てを、失う。
 「あの――も、申し訳ございません。立ち入った質問を・・・」
 文が立ち上がり、何度も深々と頭を下げて詫びる。
 僕は――そんなにも深刻な表情をしていたらしい。
 「いえ、その・・・あ、文・・・さん、構わないのです。頭を上げてください」
 「しかし・・・」
 未だ、彼女の申し訳なさそうに曇った表情は晴れない。それどころか、僅かに涙まで浮かべているように見える。
 「僕は――肺の病を患っているのです」
 「・・・肺の――」
 「ええ。僕の肺は、生まれつき弱くて」
 「そう・・・ですか」
 僅かに、張り詰められた空気が和らいだ気がした。
 彼女は、ゆっくりと椅子に座りなおす。
 「それでは、長くこちらに入院されるご予定で――」
 「はい・・・そうですね。父は、そのつもりだと思います。しかし――僕自身はもう、長くない」
 「えっ・・・」
 文の、驚嘆。
 そこで僕は、彼女の膝の上に置かれた麦わら帽に目を落とす。
 「この夏を乗り越えることができるかどうか――恐らく、その程度しか、生きていられないのです」
 「・・・っ」
 息を飲む音が、こちらまで聞こえる。口元を覆った手が、わなわなと震えていた。
 「それは・・・お医者様が、そう仰ったのですか」
 「・・・はい、担当の方に、こっそり教えて頂きました」
 努めて、僕は明るくそう言った。しかし――そんな気休めは通じはしないだろう。
 文にも、そして――僕自身にも。
 「そんな――」
 瞳を伏せて、彼女は絶句する。
 目の前の僕が――死を約束された病に蝕まれていることに、大きく衝撃を受けたようであった。
 沈黙が、重く重くのしかかる。
 「あ・・・あはは、そ、そんなに重く考えないで下さい。僕はもう――覚悟はできています」
 もう一度、力無い笑いで、その雰囲気を誤魔化そうとする。
 ――嘘だった。覚悟は、僅かながら、揺らぎつつある。
 「これは仕方の無いことなのです。今は戦争中・・・ただ寝ているだけで、物資を消費するばかりの僕がここまで生かしてもらっているだけでも有り難いと――そう思っています」
 「・・・・・・」
 「貴女がお気になさることは無いのです。ただ――」
 僕は、そこで軽く息を吐く。
 「・・・ただ、何でしょう」
 「ただ、もし貴女が僕を憐れんで下さるのなら――」
 目を閉じる。瞼の裏に、少女を浮かべる。
 「優しく、微笑っていて下さい」
 「あ――」
 文は、視線をずらして幽かに困惑したような顔を見せる。
 しかし、その一瞬後。
 彼女は、僕に真っ直ぐ、覚悟を決めたような瞳を向けた。
 「憐れみなど――あげません」
 少し厳しい声色で、そう言う。
 そして文は、直ぐに言葉を繋げる。
 「貴方がそう望むなら――ただ、貴方を励ますために、微笑いましょう」
 「励ます・・・ために・・・」
 「ええ。強く――たとえ短くとも、力強く、精一杯に――生きて下さいまし」
 彼女はそう言って、本当に、ほんとうに優しく微笑んだ。
 あまりに美しいその笑顔に、何故か――僕の頬を涙が伝っていった。





次のページへ
前のページへ

「狂記」のトップへ