|
朝。 いつものように2時限目の講義に出ようと、身支度を整えて、玄関のドアを開ける。 そして僕は、全身が震えるほどにぞくりとした。 ――そこには、ヒビキさんが立っていた。 「おはよう。コウイチ・・・」 僕の驚きに気付かず、彼女は妖しく微笑む。 「・・・・・・ッ」 その微笑に、僕は思わず絶句して視線を下へと逸らしてしまった。 そこで僕は、ふと妙な違和感をおぼえた。 一瞬の混乱。そしてそんな中で不思議と冷静な思考。 ・・・どうしたというのだろう? 今日のヒビキさんは・・・。 普段はあまり履きそうにないハイヒール、黒いストッキング、そしてあまりにも短いスカート。 ヒビキさん自身はどちらかというと華美な趣味だったのだが、マサトさんの好みで敢えてそういったものは避けているはずなのに。 視線はそのまま下から上へ。 大きく胸元のはだけたブラウス。上に羽織ったコートは、それを隠そうともせずに開かれていた。そしてきらりと光るシルバーのネックレス。 「約束したよね? 話を・・・話を、聞いて」 いつもより赤い唇が、揺れる。口の両端が吊り上る。それに合わせて小さなホクロが持ち上げられる。 少し長めの髪は綺麗に整えられて。眉は美しい形に縁取られていて。はっきりと立ち上がった睫は、僅かに輝いているようにさえ見えて。 ――だけど。 瞳だけは、薄く曇るように翳りを帯びていた。 「ヒビキ・・・さん。いつから、そこに・・・?」 声は震える。 「そんなことはどうだっていいじゃない。それより、約束よ・・・話を聞いて」 「え・・・だって、学校が」 「今日は休んで」 有無を言わさぬ、静かな迫力。彼女は、ブレスレットをつけた右手で僕を部屋の奥へと押しやりながら、靴を脱いで強引にあがりこんだ。 キィ・・・バタン。 安っぽいドアの閉まる音が響き渡る。そして―― カチャッ。 彼女は、後ろ手でそれをロックした。 「さ・・・貴方の部屋で。私の話を、聞いて頂戴」 ゆっくりと、僕は後ずさっていく。彼女の異常な雰囲気に飲みこまれていく。 部屋に入る。それでも彼女は止まらない。 「え・・・と、あの・・・」 怯える声を漏らしながら、僕は背後へ歩みを進める。 部屋の中央を過ぎる。それでも彼女は止まらない。 不自然な笑顔で、不自然な彼女が、僕を追い詰める。 コツン。 カカトに、何かがぶつかる。そして僕の視界は回転する。 ――広がる、天井。 背中には、少し堅めの――いつものベッドの感触。 冷や汗が吹き出る。息が荒れる。まるで、恐怖しているかのように。 倒れこんだ僕の顔に、影が落ちた。垂れ下がる、無数の黒。鼻につく香り。 ああ、ヒビキさんが、僕を見下ろしている。 「ねえ、コウイチ。私の話を、聞いて頂戴」 もはや念仏のようでさえあるその台詞。 僕はただ―― 「は、話って・・・」 僕はただ、怯えながら、震えながら・・・恐怖が過ぎ去ることを願った。 白い腕が伸びる。釘を打つように、それは僕の顔の両脇へと据えられた。そしてそのまま、彼女は、僕の上に覆い被さるように四つんばいでベットに登った。 磔だ。 右肩、左肩を白い腕で。右足、左足を黒いストッキングで覆われた膝で縫い止められてしまった。 僕はもう、身動ぎ一つできない。 「話というのはね・・・」 僕の動きを完全に封じて、ようやく話がループを抜け出す。 「マサトの、ことなの」 「マサト・・・さんの?」 不自然な笑顔のまま、彼女は続けた。 「マサトがね・・・私をぶつのよ」 「え?」 「うふふ、信じられないでしょう? でも本当。ほら、この前貴方――私の頬が腫れていたのに気づいたでしょ。あれね、前の日にマサトにぶたれた痕なのよ」 あはは、と声を上げて笑うヒビキさん。 ――壊れてる。 マサトさんも、ヒビキさんも、二人とも壊れてる。 助けてあげたかったのに。力になってあげたかったのに。全部、手遅れだった。 「ほら、これを見て――」 言いながら、彼女はコートを脱ぎ捨てる。そしてその下の――ブラウスまでも。 僕は慌てて目を逸らす。 「コウイチ。見て――見てよ」 その声に、僕はゆっくりと・・・おそるおそる、視線を元に戻していった。 そこには、溜め息が出るほど綺麗な・・・だけど恐ろしいほど淫らな、ヒビキさんの下着姿があった。 「ほら、この右腕。肩。胸元・・・。全部、マサトにぶたれた痕よ」 ヒビキさんが示す部位には、確かに――痛々しい青痣があった。 「どう・・・して・・・?」 声を、絞り出す。 「ドウシテ・・・? ふふ、そんなの、分カラナイ」 壊れた彼女は、壊れた玩具のように、機械的な台詞を返す。 ――ドメスティック・ヴァイオレンス。 確かそんな言葉があった。夫婦間、恋人間での暴力。 詳しいことはよく知らない。しかし、そういうことはある一部ではずっと昔から当然のように行われてきたことらしい。 しかし、それとあの穏やかなマサトさんとが、どうしても結びつかなかった。 「彼は、キット、私のこと嫌いなのよ。もうどうでもイイのよ」 「そッ、そんなこと・・・ッ」 「貴方に、私の何が分かるのッ!」 一瞬の、鬼の形相。しかしそれはすぐに緩み、異常な笑顔を取り戻す。 「貴方は知らないでしょう? 私は・・・私はね」 ごくり、と僕が唾を飲みこむ音が響く。心臓の鼓動が、耳の奥へ、ズキズキとした鈍痛となって伝わる。 そして彼女が、口を開く。 「私はね・・・処女なのよ」 「え・・・?」 間の抜けた声を発する僕。 「もちろん、キスくらいなら何度もしたわ。二人っきりの時は・・・彼、凄く照れていたけど、拒むことはなかった。私の体に触れることも多かった。優しく服を脱がされて――だけどいつもそこで終わり」 混乱は増していく。 状況に、言葉に、映像に酔う。 僕の中でも・・・何かが壊れていく。 「そして・・・そしてね。いつもこう言うの。『やっぱり止めておこう』って。残酷だと思わない? 性欲があるのはオトコだけじゃないのよ。いつも――私は、マサトになら全部あげてイイと思ってた。ううん、全部あげたいと思ってた」 ぽとり、と、僕の頬に雫が落ちる。 ギチギチと笑う彼女の瞳から、水が溢れ出していた。 「でも、私が何て言って誘っても、彼はそれに乗ってこなかった。それどころか・・・彼、どうしたと思う?」 不意に投げ掛ける問いに、僕は何も答えることができない。 「彼ね、笑いながら――私を殴ったのよ。驚いたわ。それまで、暴力はおろか・・・ケンカ一つしなかったのに」 水が、もう一滴。 そして彼女は、僕を縛めるその両手をベッドから離し、上体だけ起き上がった。そして、未だ緊縛の解かれぬ僕の両足にへたり込むように腰を下ろす。 両の膝に、やわらかい、感触。 「だからね、私は――彼から逃げるの」 言いながら、スカートのサイドへ手を回す。プチ、という音と共に、それはただの布切れとなって下へ落ちた。 視線が、腰へと吸い寄せられる。 黒のストッキングは太腿の途中で止まり、それを吊るし上げるように腰元からベルトが伸びている。いわゆる――ガーターベルトいうやつだ。 そして、腰の左右の紐を結んで止める黒いショーツ。華美な模様の刺繍が施されており、それだけでも僕の頭は沸騰しそうだった。 「どう? 私、綺麗?」 何も、言えない。 と、不意にヒビキさんの右手が僕の中心へと伸びる。 「うあ・・・ッ」 「ふふ、イイ反応ね。オトコノコはそうでなきゃ。やっぱり・・・やっぱり彼は、私のことなんか嫌いだったんだ」 「・・・そ・・・そんなこと・・・」 「だって、貴方はこんなに――エッチな私を見て、こんなにココを腫らしているじゃない。それが何よりの証拠でしょう?」 ――ああ、恥ずかしさと罪悪感で、死んでしまいそうだ。 「ねえ・・・」 再び、白い腕が僕を束縛する。 「私と、したい?」 「な――ッ!?」 「しようよ。ね? 私と、エッチしよ?」 「そ、そんな、ヒビキさんッ!?」 「うふふ、否定してもダメよ。オトコノコって不便よね。どんなに一生懸命、その口で嘘を吐こうとしても――」 ジィーーー・・・ッ。 ジーンズのジッパーを下ろされ、そして――彼女の手が、隆起した僕を引きずり出す。 「ココで、バレちゃう」 「うッ・・・」 そして彼女は、そのままその手を上下に動かし出した。 「ほら・・・気持ちイイ?」 「やめ・・・ヤメて下さいッ! ヒビキさんッ!」 「ふふ、そうよ、イイ声ね。もっと聞かせて頂戴」 「ヒビキさん、お願いです、そんな――」 「じゃあ・・・いくわよ?」 空いた手でショーツの紐をほどく。はらり、と布が舞い降りる。 ああ――ダメだ。拒めない。 僕の中の何かが壊れて――封印したはずの、殺したはずの気持ちが、溢れ出す。 そうか、僕は――僕は恐怖していたんじゃない。 期待していたんだ。 ずっと、ずっと前から。こうなることを望んでいたんだ。 ヒビキさんを、汚したかったんだ。 絶望にも似た感覚が、更に身体の自由を奪う。 彼女の腰が、沈む。 ゆっくりと――僕が、ヒビキさんの中へ入っていく。 ――ヒビキ、サン。 「ふああああっ!」 悲鳴にも似た、彼女の声。 それでも止まらずに・・・沈んで、沈んで、ついに一番奥まで僕を飲みこんだ。 「・・・はあ、はあ、はあ・・・っ」 荒い息。それは彼女だけのものじゃなく、初めての感覚に狂う僕のものでもあった。 ふらりと、彼女の視線が揺れる。そしてやがて、僕を捕らえる。 だけど――視線は、僕を突き抜けていた。 ああ、彼女は僕を見ていない。 きっと、僕の向こうに――「彼」を見ているんだろう。 そして、ヒビキさんはゆっくりと動き出した。 「どう? 気持ちイイ? 気持ちイイでしょう? 私は――気持ちイイよ」 嘘だ。必死に、痛みを堪えているくせに。 初めての興奮の中でも――それでも冷静な脳の一部分が、分析する。解読する。 彼女は、僕を僕と見ていないから。僕を――「彼」に見立てているから。 「あっ、ああっ。あふうっ! イイっ、イイよ、コウイチ・・・」 彼女は、声を張り上げて。 僕を見ずに、痛みに耐えていた。 そして僕は、今にもおかしくなりそうな快楽をむさぼり――やがてその一番奥に、封印したはずの思いを吐き出していた。 ――いつの間にか、僕は眠っていたらしい。 眠る間際の映像が、脳裏に甦る。 狂うほどの悦楽の中に浮かんだ彼女は、やはり淫靡で―― だけど、夢から覚めたような僕にとっては、何故だかちっとも魅力的なんかじゃあなかった。 ただ、死にたいくらい、切なかった。 そして――そしてようやく鈴のことを思い出して・・・本気で死にたくなって、もう涙すら出ることはなかった。 | |