Hard rain



――2――

 「オーッス!」
 そんな声と共に、パシンッ、と肩を叩かれる。
 「うわ・・・っと、なんだ、ヒビキさんか」
 「『なんだ』は無いでしょ。若者ォ、ゲンキが足りないぞ?」
 「ハア・・・」
 当たり前のように隣を歩き出すヒビキさんに対して、僕は引きつった笑みを浮かべながら生返事をした。いつもながら、彼女のペースにはどこか付いていけないところがある。
 朝、10時30分。僕達は今、次の講義を受けるために別の教室へ移動している。
 ウチの大学は、決して広い方ではない。しかし、理系の科目で使う教室から文系の科目で使うそれへの移動は、大学の端から端へと歩くようなものだ。こうなるとさすがにそこそこの距離になる。
 次の授業は、心理学。理系の僕と文系のヒビキさんでは取得科目は大きく異なるが、中にはこの心理学のような文理共通の教科もあり、同じ授業になることもしばしばである。何でも、彼女は去年この教科の単位を取り損ねたので1つ下の僕と一緒に授業を受けるハメになったらしい。
 「それよりさ、コウイチ。昨日、ちゃんとカノジョに電話した?」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、ヒビキさんが話を振る。何となく予想はしていたのだが・・・本当にこのテの話題が好きなんだなぁ。
 「一応・・・しましたよ」
 「ふふふ〜、何かあったら、逐一おねーさんに報告するんだぞーぅ」
 イヤな笑顔のまま、彼女はそう言った。それに対して僕は、勘弁してくださいよ、と漏らすように呟いて答える。
 間も無く、僕らは目的の教室へとたどり着いた。これでめでたくヒビキさんの質問攻めから開放される・・・ワケはなく。
 席指定の無いこの教科では、彼女はいつも僕の隣で授業を受けるのだ。
 「で? その――『野仲さん』だっけ? カノジョ、どんなコなのよ?」
 案の定、隣の席を確保したヒビキさんは尚も僕を問い詰めた。
 「えーと・・・なんつーか、真面目な人っすよ」
 ヒビキさんと違って、と言いかけて止めた。そんなことを言えば、後でどんな逆襲に遭うか分からない。
 「トシは?」
 「えっと、確か18・・・だったかな?」
 「なぬっ、年下の彼女かぁ。ヤルねぇ旦那〜、このこのっ」
 「うっ、そんなヒビキさん、オッサンじゃないんだから・・・」
 「いや、カノジョは若いに越したことはないぞーぅ」
 そんなワケの分からないことを言いながら、肘で僕を小突く。マサトさんはいつもどうやって対処しているんだろう・・・。
 「そ、それにっ。まだ・・・付き合うって決めたわけじゃないですし」
 「何言ってんのよ、そんなこと言ってるといつまでたっても童貞のまんまだぞっ」
 「うぐっ・・・・・・」
 「・・・・・・」
 「・・・・・・」
 「・・・・・・石化した?」
 「とっ、突然ヘンなこと言うからでしょう!」
 「・・・てへっ☆」
 「カワイコぶっても無駄です! っつか、余計ダメです! 可愛いコはそんな下品なネタ使わない!」
 「何よ〜ぅ、アタシは正直に言っただけでしょ!?」
 「今度は逆ギレですか!」
 ――まったく、何てことを言い出すんだ・・・。
 軽く溜息を吐き出して、改めてヒビキさんの方に向き直る。
 と、そこで僕はふと気付いた。
 「あれ・・・ヒビキさん」
 それまで、何となく顔を直視しなかったので気付かなかったのだけれど。
 「ん?」
 よく見ると・・・僅かだけれど。
 「頬のトコ、腫れてませんか?」
 「えっ?」
 慌てて右手で頬を隠す。
 不意の僕の言葉に、彼女は必要以上に動揺したように見えた。
 そして、慌てて小さな手提げタイプのバッグから手鏡を取り出す。
 「どうです? 何か、少し赤くなってるように見えたんですけど」
 「あー・・・あはは、そうだね、少し・・・赤いね」
 声のトーンを落として、彼女はそう言った。
 僕は、そんな彼女の声に、小さな違和感を感じた。
 ・・・嘘?
 いや、嘘なんかつく必要は無い。というより、このシチュエーションでどんな嘘をつけるというのだ。
 じゃあ、このフシギな違和感は何だろう?
 ・・・隠し事、か。
 そうだ。僕は、「頬が腫れてる」としか言ってないのに――
 どうして彼女は、確信を持って右の頬を隠したのだろう。
 そう思うと、今の言葉もやっぱりどこか白々しいような・・・そんな感じがする。
 「ヒビキさん、何かあったんですか?」
 僕は、おずおずとそう聞いてみた。
 「いや、ちょっとね。昨日・・・」
 言葉を濁す。
 最初から、素直に答えが返ってくるとは思っていない。
 「昨日?」
 そこで、ヒビキさんは僕から大きく目を逸らした。
 「僕には・・・言えないことですか?」
 ――無言。
 沈黙は――きっと、肯定だ。ただ頬が少し腫れているというだけのことの裏に、一体どんな秘密があるのかは分からないけれど。
 「言えないことをムリに問い詰めるようなことはしませんけどね。マサトさん、心配しますよ」
 僕は、今自分に言える唯一の台詞を吐き出した。
 「・・・は・・・・・・いよ」
 「えっ?」
 目を逸らしたまま、少し間を置いてヒビキさんは何かを呟いた。
 きゅっ、と強く――歯を食いしばるように口を結ぶ。朱のルージュが引かれた唇は、それでも美しく見えた。
 そして、もう一度、ゆっくりとその唇が揺れる。
 「キミには、分からないよ」
 遅れて、視線を僕へと戻した。
 その目は、酷く悲しそうで。今にも泣き出してしまいそうな――弱々しい瞳だった。
 そんな視線と言葉とがあいまって、僕の胸の奥にズンと鈍い衝撃が響き渡る。
 そして――
 「――言ってみなきゃ・・・」
 思うよりも先に、僕の口は言葉を発していた。
 「言ってみなきゃ、分からないじゃないですか」
 「・・・キミは・・・優しいね」
 ふっ、と、瞳の色が元に戻る。そして、ヒビキさんは軽く笑った。
 「ふふ・・・ゴメン、何でもないよ。気にしないで」
 それは、何故かいつもよりも素敵な笑顔で。
 「――マサトのことも含めて、ね」
 それは、僕のことを全く寄せつけない笑顔で。
 やっぱり僕は何もできないんだと――強く、そう感じられて。
 今にも、閉じ込めたはずの想いが溢れそうな・・・そんな気がした。
 ――ガラガラッ、と教室の扉が開く音が聞こえる。教授が入ってきたらしい。
 「ほら、コウイチ。授業始まっちゃうよ?」
 ヒビキさんは、すっかりいつもの彼女に戻っていて・・・まるで何もなかったように。
 きっと、今のままじゃ何を聞いても答えてくれない。
 そう思った僕は、取り敢えず教授の言葉に耳を傾ける振りをしていた。
 時折黒板にチョークで書かれる単語を書き写しながら、それでも僕は、もやもやとした何かに蝕まれたままだった。


 授業が終わって、学食で昼食をとって。
 僕は、バイト先のコンビニへと向かった。
 今日は学校は昼で終わり。その代わり、昼からはバイトが入っていたのだ。
 「オツカレサマでーす」
 言いながら店の奥に入って、ぱぱっと手早く着替えを済ませる。ものの数分後、僕はいつものようにレジに立っていた。
 「お疲れ様です」
 先にレジに立っていた野仲さんが、そう声を掛けてくる。
 「こんちわ」
 僕が短くそう言うと、彼女は嬉しそうに笑って、
 「コンチワ」
 と返してきた。無邪気な笑顔が可愛らしい。
 「あのっ・・・」
 「ん?」
 「今日、この後・・・お暇ですか?」
 客は二人しかいないのに、野仲さんはぼそぼそと小声で僕に問いかけてきた。仕事中の私語は禁止、という店長からの言いつけを気にしているのだろう。
 ――そんなもん、客さえいなかったら誰もロクに守ってないんだけどなぁ。
 真面目なコ・・・なんだな。やっぱり。
 「ああ、大丈夫だけど」
 僕も、そんな野仲さんに合わせて小声で答えた。
 「じゃっ、じゃあ、一緒に・・・ゴハン食べに行きませんか?」
 「うん、僕は別に構わないよ」
 「あはっ、やったぁっ」
 満面の笑顔で、喜びを表す彼女。
 そんな彼女を見て――そして、小声で誰にも見つからないように話し合うのがまるで小学生のようで、僕は何となく、くすぐったい気持ちになってしまった。
 うん・・・こんなのも、悪くないな。
 その日は、いつもよりも時間が経つのが早く思えて、気が付いた時にはもう上がりの時間だった。
 店に入ってきた時と同じように、僕は手早く帰る準備を済ます。
 「じゃ、僕は先に外に出てるから」
 別室で着替える野仲さんに、そう声をかけた。
 「あ、はいー」
 返事を確認して、外へ出る。
 辺りはすっかり夜。
 冷たい空気が肌に刺さる。白く染まる息が、そんな寒さを更に強調していた。
 それでも、僕は冬の空気が好きだ。
 肌に感じる冷たさは、空気を清浄なものに感じさせてくれる。そして、空は夏のそれよりもずっと澄み渡り、遠近感の曖昧な雲と月はどこか幻想的なイメージで僕の目に映る。
 ――前に、そんなことをマサトさんに話したことがあった。
 彼は微笑んで、詩人だな、と評した。誉めているのか貶しているのかはよく分からない。マサトさんのことだから、貶しているわけではないのだろうけど・・・昨日のこともあるし、案外僕をからかっただけなのかも知れない。
 「お待たせしましたぁ」
 野仲さんの声だ。振りかえると、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってきている。
 その姿を見て、
 「・・・寒いの?」
 「へ?」
 僕は思わずそう問うた。もう冬といえば冬だけど・・・それにしたって、厚着だ。
 「いや・・・コートとマフラーって・・・まだ11月なのに」
 ついでに言うと、手袋もしている。まさに完全装備ってやつだ。
 「あ・・・私、寒がりなんですよぅ」
 少し照れて、うつむくようにしながら言う。
 「あはは、別に責めてるわけじゃないんだからさ」
 むしろ、そんなところも可愛らしく思える。
 彼女は、少し困ったようにその赤い手袋で顔を覆った。恥ずかしさのようなものも手伝っているのかも知れない。
 「んじゃ、行こっか」
 「あ・・・ハイ!」
 そして僕らは、近くのファミレスに入って夕食をとった。料理を待っている間、そして食事をしている間も、いろいろなことを話した。
 彼女の趣味は読書。それも漫画などじゃなく、きちんとした文学小説らしい。夏目漱石、芥川龍之介・・・この辺までは何となく分かったが、大江健三郎、とかいう人のトコロからはよく分からなかった。また、何も文学的なものに限らず一応本なら何でも読むという。それを聞いて、少しホッとした。
 休日は主に、学校のレポートと飼っている犬の散歩。リュウノスケ、という名の犬だそうだ。由来は勿論、前述の芥川龍之介。雑種だがなかなか可愛いのだという。一度見てみたい、と言うと、是非いらしてください、と興奮気味に言われたので少し驚いた。当然、悪い気はしないのだが。
 料理は、洋風より和風が好き。音楽も洋楽より邦楽、ただしクラシックは例外とのこと。
 ――などなど、彼女は僕よりも倍くらいの時間、様々なことを話してくれた。もしかしたら、口数の多い方ではない僕を気遣っていてくれたのかも知れない。
 僕がそんなことを思いながら野仲さんの話に耳を傾けていると、ふと我に帰ったように動きを止めて、彼女は言った。
 「・・・私の話なんか聞いて・・・面白いですか? な、なんか、私ばっかり喋っちゃって・・・その」
 申し訳無さそうに、うつむく。
 「あ・・・いやっ、そんなこと無いよ。気にしないで。僕は、人の話を聞くの好きな方だから」
 今一つ、フォローになっていない気もする。
 「私・・・何だか、緊張しちゃって、その、すみません」
 「緊張?」
 そこで、彼女が僅かに頬を赤らめる。
 ――ああ、しまった。
 僕は、この場で一番大事なことをすっかり失念していた。
 彼女は、今きっと「試されている」と思っているのだ。僕が、彼女のことを「恋人」として相応しいか見定めているのだと。
 あまりの自分の気の利かなさに呆れてしまう。こんな風だから僕はモテないんだ。
 「ごめんなさい・・・迷惑、でしたか?」
 うつむいたまま、瞳だけをこちらに向ける。上目遣いになったその瞳は、微かに濡れているように見えた。
 僕は慌てて否定する。
 「そんな! 僕の方こそ、ゴメン。野仲さんと話してるのが楽しくて、昨日のこととかすっかり忘れちゃってて・・・だから、君は悪くないんだっ」
 「私と話してると・・・楽しい・・・?」
 きょとんとして、彼女は聞き返した。
 「うん、今、色んな話を聞いてて、すごく楽しかった。こんなことならもっと早くから話してれば良かった、って思うくらい」
 「ほ、本当ですかっ?」
 「ああ、本当」
 ぱぁっ、と一気に彼女の顔が明るくなる。そのころころと変わる表情が、まだ幼い証拠なのだろう。といっても、年は僕と1つしか変わらないのだが。
 そして僕は――そんな彼女に、どことなく引かれていることに気が付いた。
 僕とは明らかに違う世界を生きた、少女。表情豊かに語りかける年下の彼女は、僕にとって新鮮な存在だ。
 全く未知の女の子だった「野仲さん」が、僕の中に少しずつリアルな存在として息づいていく。その感覚が凄く不思議で、どこか心地良かった。
 こういう「好き」も、あるのかも知れないな・・・。
 先程の罪悪感もあって、その勢いなのかも知れないけれど・・・僕は、深く考えずに、その言葉を紡いでいた。
 「ねえ・・・野仲さん。僕と、付き合ってくれないかな」
 「・・・え?」
 唐突の言葉を理解できていない彼女。
 ――僅かな間。
 「つ、つつつつ付き合うってその、わわ私とですかっ?」
 半ば錯乱気味に、彼女が言う。
 「うん。野仲さんと。もっと・・・いろいろ話したいな、って思ったから」
 「あ、は、はい! あのその、わ、私なんかで良かったら!」
 こくこくこく、と何度もうなずき、目には涙をためて喜ぶ。
 そんなに喜ばれると、やっぱり照れくさいなぁ。
 それでもやっぱり、こんな状況に憧れていた僕の胸は熱くなってしまって。
 「あ〜、ビックリしたら涙が出てきちゃったよぅ」
 「あはは、そんなに驚くことないのに」
 ――初めての、僕の恋人。
 半分は勢いみたいなものだったけど、きっと平気だと思う。何故か、そう感じる。
 ただ――恋人、という単語を思い浮かべたと同時に、ヒビキさんの顔まで浮かんでしまったのが酷く気になった。
 でも、大丈夫。
 ヒビキさんへの気持ちは、もうずっと前に殺してしまったから。きっと、僕の中で「恋人」といえば「マサトさんとヒビキさん」のことしか無いからではないだろうか。うん――そうに違いない。
 とにかく、今はただ目の前の彼女のことを想おう。
 そして僕は、目の前に残った食後のコーヒーを飲み干して、にっこりと微笑んだ。




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