−6−
いつも通りの朝。
昨夜まで降り続いていた雨はすっかりあがってしまい、またしても、目眩を覚えそうな程に太陽が照りつけている。
私は今日も、この変わらない現実の上を歩いていた。
学校に着く十分くらい前だろうか、私は、そんな不変のはずの今に違和感を感じた。
・・・彼が、いない・・・?
ここ数日の間、気が付いたときには当然のように隣にいたはずの彼が、何故か、いない。
そして私は、昨日の夕方のことを思い出した。
ああ、ついに私に愛想を尽かしたのだな。
また、少しだけ、彼に悪い気がした。
彼の目はあんなにも真摯であったのに、私は、どうして笑っていたのだろうか。彼の目、彼の口、彼の耳・・・。それらが、気にかかる訳ではないはずだ。それなのに、何故だろう。彼を見ていると、私は私でいられなくなる。自分を抑える自信がなくなる。
何だろう、この気持ちは・・・。
どんなに考えても、分からない。分かりそうにない。
・・・そう、始まりは、昨日の朝。彼の、あの脅えにも似た表情だ。明らかに気持ちの悪い表情なのに、何故か、気になった。そして、あの熱を感じた。
あれが何だったのか、私にはやはり分からない。しかし、それが原因で私が彼に興味を持つようになったことは確かだろう。
とにかく、彼がいないことが、私に欠落感を感じさせる。何となく、嫌な気分だ。そして、ほんの少しだけ、彼に会いたいと思った。
その日は結局、学校にいる間中そんな調子だった。
そして、夕方。
今日は、一度も彼に会わなかったな。
そんなことを考えながら、私は学校をあとにした。
朝来た道を、また一人で歩く。欠落感だけが、私を支配していた。
胸の熱が膨らみ始め、いつしかそれは痛みへと変わる。
私は初めて、「切ない」という単語を、体験として脳に刻むことになった。
そして、これが「恋」というものなのかも知れないな、と思った。
しかし、何故・・・何故、彼を?
疑問は、解決することはなく、増える一方だ。
−などと思い悩んでいるうちに、私の家の公園前までたどり着いていた。
朝、いつも彼とはここで会う。彼は、私を待っているのだ。今朝はいなかったが。
そして、その公園前の街灯そばに、
彼が、立っていた。
私は、軽く動揺する。
「・・・どうしたの・・・こんなところで?」
遠慮がちに聞いてみる。
彼は、答えない。ただ、ぼんやりと私を見ている。その目は、昨日の母の目に似ていた。
そして私は、危険を感じた。
とっさに、彼から飛び退くようにして離れる。わずか、彼の指先が、私の首をかすった。
私を、絞め殺そうとしている・・・?
「・・・−・・・・・・−」
彼が、何かを呟きつつ、ゆっくりと私に近づく。しかし、何を言っているのかまでは私には理解できなかった。
鋭い目、優しく微笑む口元。まるで、別人のようだ。これは・・・あの彼ではない。
私の求める、彼ではない。
彼はいつも、脅えた目をして、卑屈な笑みを浮かべ、そして・・・私の中の「何か」を求めていた。
今の彼には、どれも見あたらない。
私が求めているのは−愛しているのは、今、目の前にいる彼ではない。
そう、ようやく私はそのことに気が付いた。
私は、彼を、愛している。
ただ、その形が、私の知識にある「恋」や「愛」とは異なっていたようだ。そのせいで、私はこの熱の正体をつかめずにいたのだろう。しかし、気付いてみれば、何ということもない、普通のことだ。
彼と一緒にいたいと願っている。触れ合いたいと思っている。必要としている。そして、そして−
これらを、愛情と呼ばずに何と呼べばいいのだ。
私は、そう思い至ると同時に、何だか無性に悲しくなった。
私の愛する人は、この場にはいないのだ。
と、そこで、私の顔を見つめたまま、彼の動きが止まった。
何だか、不思議な顔をしている。狂っていると言えば狂っているのだが・・・それは、そう、子供が、叱られて泣き出すのを無理に堪えようとしているかのような、そんな表情。
そして、卑屈な声で・・・私に、理解できる声で、言った。
「どうして・・・そんなに悲しそうなの?」
彼が、立ち戻ろうとしていることが分かる。「彼」を起こしてあげなくては。
私は、答えた。
「貴方が・・・貴方ではなくなったからよ。私にとって、今の貴方は、魅力的ではないわ。消えて頂戴」
彼の目が、宙を舞う。
私の胸が、また熱くなる。
軽い、沈黙。
「あ・・・う・・・うわぁぁあぁああぁあっっ!」
辺りに響き渡る程の、絶叫。
そして彼は、完全に壊れた。
そして私は、満面の笑みを浮かべた。
自分の気持ちの全てを完全に理解した私は、多少時間をおくと、あの人を真似て、壊れた彼に囁いた。
「おかえりなさい、愛しているわ」
彼の絶叫が止み、その場に座り込む。
茫然として、目の焦点すら合っていない。そして、身体の力は抜け、ぴくりとも動かない。
私の全身に、震えるほどの快感が走る。
−私は、たった今、彼を支配した。
遙かな高みから、堕ちた彼を見下ろす。助けを求める彼の目が、嬉しそうに輝いている。
私は、跪いた彼の耳に、甘く咬むような口づけをし、私の所有物であることを示した。
彼も、潤んだ瞳と、微かな吐息で、それに答える。
ああ、なんと愛おしいのだろう。
私は、今度は少しきつく、彼の唇を咬んだ。
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