――4――



 ナミからの電話を受けたのは、更に翌日のことだった。
 ――あの日僕が急に帰ってしまったことで動転してしまい、今まで何も手につかなかったなどと言う。
 「マシロさん・・・私に至らない点があったのでしょうか?」
 電話越しに、涙声で訴えるナミ。
 「気に入らないところがあれば、仰ってください。私、きっと直して見せますから」
 健気な言葉に騙されてはいけない。これはきっと罠なのだと自らに言い聞かせる。
 そして僕は、意を決して――実に直接的に、自らの疑問をぶつけてみた。
 「あの時も触れたことですが・・・何故、ナミさんはあれほどまでに手を繋ぐことを避けるのですか」
 姉さんに騙されているのよ。
 ミナの言葉が蘇る。
 その疑念は、ナミの態度から確信に至った。
 しかしそれでも僕は、やはり本人の口からはっきりと聞きたかった。言い訳して欲しかった。
 「それは・・・」
 僅かに口ごもり、短い沈黙が訪れる。
 「私は、その」
 照れるような、恥ずかしがるような口調で、ナミは言った。
 「父親以外の男性に触れたことがないのです」
 「これまでずっと・・・ですか?」
 「はい。ですから、マシロさんにもあんな態度を・・・申し訳ありません」
 なるほど、その可能性は確かに否定できない。僕はナミの人生を何ひとつと言って良いほど知らないのだから、本人がそうだと断言すればもう信じざるを得ないのだ。
 だからと言って、である。
 「何度も言いますが、もう3ヶ月も経っているのです。これから結婚を考えているとしたら、手を触れることもできないというのはやはり――」
 言い訳として、弱いと思う。
 仮にそうだったとした場合、今度はこれまでに一切その事実を口にしなかったこと自体が不審だ。つまりどちらに転んでも、ということである。
 「でも・・・本当なんです。本当に、それだけなんです」
 悲痛な叫び。
 切なく胸に響くはずのその声は、何故か僕を苛立たせて――

 「貴方の妹は、そんなこと言っていませんでしたがね」

 最低の嫌味を、引き出させた。
 「え・・・ミナ、が?」
 「そう、ミナさんが」
 「ミナは、何と言ったのですか?」
 「姉さんに騙されている、と。ナミさんは、僕を苛めて悦んでいるのだ、と」
 「そんな」
 そんなことはありません。嘘です。出鱈目です。
 泣き叫びながら否定を繰り返す。
 信じてください。ミナは嘘を吐いているのです。私はそんな人間ではないのです。
 懇願するように、祈るように、繰り返す。

 信じられないと僕は言う。
 信じて欲しいと彼女は返す。

 何てくだらない押し問答。
 しかしやがて、僕の頭は麻痺し始めて。
 次に、じくじくと胸が痛み始めた。
 ああ、いけない。毒が、回っている。
 そう、彼女の声は、毒だ。
 耳から侵入し、心臓へと届く毒だ。
 これ以上騙されるものかと固く固く閉ざした心を、あっという間に侵食してしまう。
 しかし、それも仕方のないことだ、と思う自分がいる。
 だって、僕は、ナミのことが――。

 「また来たのね」
 無言で押し入った僕に、微笑すら浮かべてミナは言う。
 ベッドに腰掛けたまま、これから起こる惨劇を期待する眼差しで。
 「何て卑怯な男なのかしら。姉さんを自分のものにできないからと言って、私をその代替品にするなんて。穢らわしい、本当に穢らわしいわ」
 酔ったように、うっとりとした顔で僕へ非難の言葉を浴びせ続ける。
 そんな彼女を制止するように、僕は言う。
 「ミナ。もう、止そう」
 「え?」
 何を言っているのか分からない、という顔。
 「虚しいだけだと思わないか」
 自分を誤魔化して、快楽だけを求める僕も。
 破綻することが見えている関係に溺れる彼女も。
 「僕はもう、厭になってしまった」
 「・・・姉さんね」
 どこか浮かれたような表情は一瞬にして消え失せ、目を尖らせてきつく僕を睨む。
 いや、僕の向こうにいる姉を睨んだのか。
 「また姉さんに丸め込まれたのね? 何度言えば分かるのかしらこの馬鹿は。いい? 貴方は騙されているのよ。あの貞淑な振りをした性悪女に!」
 怒りの込められたミナの叫びは、しかし今度は僕に届かなかった。
 どこか冷静なまま、今度はミナへの疑問をぶつける。
 「ミナは・・・どうして、そんなにまでナミを悪く言うんだ? そんなにも自分の姉さんが憎いのか?」
 「別に、憎いわけじゃないわ。私はただ事実を言っているだけ。いや、違うわね・・・そう、憎いわ。あんな猫被りの女が、嘘吐きの女が・・・貴方を奪うなんて」
 「ミナ・・・」
 「もういいわ、まだ目を覚まさないのなら、良いことを教えてあげる」
 そして再び、彼女は笑みを浮かべる。
 妖艶な、そしてどこか邪悪な笑みを。

 「姉さんはね、処女じゃないのよ」

 その歪んだ唇から零れる言葉は――容易く僕の呼吸を止める。
 「くふふっ、貴方、あの人に騙されているのなら――あの人は未だ純潔だと思っていたのでしょう?」
 「だって、ナミさんは・・・父親以外の男に触れたことがない、と」
 「そんなもの嘘に決まってるじゃない。残念だったわね、私は、あの人が処女なんかじゃないことを知っている。『初めて』の相手も知っているわよ? だって、双子の妹だものね」
 悪戯っぽく、清らかな少女のように、可憐に嗤う。
 ――ああ、またか。
 また、ナミは僕の頭をかき回すのか。
 信じられないと僕は言った。
 それでも信じて欲しいと彼女は言った。
 幾重にも繰り返した。
 完全に信じたわけじゃない。そう思いながら、それでもミナとの関係は異常であると考えて僕は今日ここに来たのだ。
 結果はこの通り、無残なものだ。
 こんなにも、裏切られたと感じているじゃないか。
 実に無様だ。
 僕は、もう――
 「もう、何が何だか、分からないよ」
 何も考えることなんかできない。
 「ねえ、僕は、何を信じれば良いんだろうね」
 目の前に浮かび上がるのは、ナミの幻影。
 「ナミ。もう一度、信じて欲しいと言ってよ。ミナは嘘吐きだと言ってよ。ねえ――」
 「何度でも言ってあげるわ――姉さんは、ナミは貴方を騙しているのよ」

 もう、何も信じられないよ。

 目の前には、白く美しい、ナミの姿。
 僕は、救いを求めるように手を伸ばして。

 ゆっくりと、その首を絞めた。

 完全に息を止めた彼女は、涙と涎に塗れながら――それでも尚、満足げな笑みを浮かべていた。
 その穏やかな笑顔は、まさにナミそのもので。
 ナミ、そのもの、で。
 ナミ――ナミ?

 僕の脳裏にある仮説が浮かび上がる。

 ナミと、ミナ。
 ナミは、上品で優しく、清楚で美しい、長髪の美女。
 ミナは、乱暴で粗野、しかしどこか妖艶な、短髪の美女。
 目の前で横たわるのは・・・ミナ。
 僕は慌てて部屋中を調べる。
 もしかすると、この部屋のどこかに――。

 そして僕は、ドレッサーの引き出しから、ナミの髪と同じ位の長さのウィッグを見付けた。
 更に、ウィッグの下には、まるで今の僕を見透かしたような書置きが。

 『ミナなんて、最初からいない』

 ああ、ナミ・・・君は、最初から、この結末を予想し、期待していたんだね。
 こんなもの、余りにも残酷な答え合わせじゃないか。
 ナミ。
 一体どれだけの嘘を、君は重ねたのだろう。
 この計画通りの結末に、満足かい?
 全ての疑問に答えを見付けられた僕は。
 彼女を失った絶望と。
 彼女に唯一深く愛されたという充足感を持ったまま。
 ゆっくりと、自らの世界を閉じた。



――了――




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