Pure white


――1――



 目立たない、人。
 僕ら男子にとっては、苗字は知ってるけど名前の方は知らない・・・そんな、よく分からない、印象の薄い女の子だった。
 ――高校に入ってもう一年半。異常と思えるこの場所に、僕も随分慣れてきていた。
 それまで意識することもなかった彼女に強く惹かれたのは、そんなある日の放課後だった。


 宿題に使う英和辞書を置きっ放しにしていたことを思い出した僕は、誰もいないであろう教室へと戻った。
 時刻は17時すぎ。この時間になると、教室にはもう誰も残っていない。我が校の生徒は、基本的に無駄な居残りなどしないのだ。教師達の恐ろしいまでの統率力に従わされた犬達は、そこに疑問を持つことすらしない。
 僕は、こんな学校が大嫌いだった。しかし、反逆できるほど強くもなかった。こうして律儀に忘れ物を取りに帰っている辺りがそれを証明している。
 溜め息をつきながら、僕は教室の扉に手をかける。
 そこで――教室の中からの微かな物音を聞いた気がした。ぴくり、と僕の体が止まる。耳をすます。
 ・・・嗤い、声。それも複数。
 息を飲む。
 それは、女子生徒の・・・嘲るような、汚らしい嗤い声だった。
 こんな声で嗤う生徒を、僕は知らない。
 好奇心にかられ、僕はわずかにドアをスライドさせると、こっそりと中を覗いた。
 ――そこに、彼女がいた。
 そしてその周りには、三人の女子生徒。一人は彼女の右手を持ち、もう一人は左手を掴んでいる。要するに・・・二人がかりで彼女の両手を押さえつけていたのだ。
 壁に張りつけられる形で動けない彼女を、最後の一人は嗤いながら殴りつけている。腹部、胸部を拳で打ちつけ、太腿をバシバシと蹴りつける。
 上手いものだ。攻撃するポイントは肌の露出しない部分に限定されている。しかも、適度に力を抜いて・・・問題にならぬよう――骨折などの大事に至らぬように打っているように見える。ただ、それなりの痛みを与え、悲鳴を上げさせるだけの打撃だ。
 その、殴り続けている女子生徒の、楽しそうなこと。
 両サイドで彼女の腕を押さえる二人も、次は自分の番だとばかりに心待ちにしているように見える。
 僕は――こう言っては何だが――軽い感動すら覚えた。
 生徒が教師に逆らうことなど、たとえその目の届かぬ場所であっても、ないと思っていたから。ただ命令を忠実に守るだけの木偶人形だと思っていたから。
 止めなければ――。
 当然最初に出るべきその思考が、ようやく僕の中に現れた。
 扉にかけた指に、力を込める。
 その瞬間。
 ――動きを封じられた彼女と、目が合った。
 ドクン。
 鼓動が、激しくなる。血液が、全身を駆け巡る。
 そして、僕を見詰めたまま、彼女は――

 僕に向かって、優しく微笑った。

 汚れない微笑。僕の脳は蕩ける。
 力を込めたはずの指は脱力し、僕はだらしなくその場に座りこんでしまった。
 何笑ってンだよ、という叫び声が聞こえる。そして続く汚れた嗤い声。
 教室内の彼女は、引き続き殴られ続けていた。もう目が合うはずもない。
 しかし、僕は。
 魅入られたように。
 殴られ続ける彼女から、目が離せなかった。
 美しいと思った。
 殴られながら、貶されながら・・・それでも彼女は微笑ったのだ。
 ああ・・・赦している。彼女は、全てを赦している。
 耐え難いはずの悪意を浴びせられても。
 彼女は、敢えてそれらを受けとめて。
 限りない憐れみと、情けと、優しさで返している。
 僕の背筋に、甘い痺れが走る。
 美しい・・・汚れない、純白の人。
 それに比べて、周りの少女達の醜いこと。
 そして・・・覗き見る僕の、汚らわしいこと。
 奥底から湧きあがるゾクゾクとした震えに、快感にも似たものを覚えながら、僕は――少女達が居なくなってしまうまで、その場に縛り付けられていた。




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