Mother





 「おめでとう」
 そんな無責任な祝福の言葉は、私の心には全く響かなくて。
 ただ――恐怖と嫌悪が膨らむばかり。


 どうしてこんなことに、と思った瞬間、私は自らを馬鹿にした。
 あれだけ求めれば、求められれば、こうなることも当たり前であろうに。
 ――妊娠三ヶ月。
 たった今、医者にそう告げられた。
 そして投げ掛けられる、祝福の言葉。私達が結婚していて、それなりの蓄えもあるから。世間一般の常識で、充分子供を育てることができると判断されたから。
 医者のみならず、親類も友人も、皆が祝ってくれることだろう。
 だけど、私は。
 子供なんて、ちっとも欲しくなかった。
 むしろ、自分の中に自分以外のモノが宿るという現象が、気持ち悪くて仕方なかった。
 あの人は――夫は、どう思うだろうか。
 日頃から、そういうことは自然な流れに任せるさ、と言っていた夫。彼は、実際に子供が出来たと知ったら――喜ぶのだろうか。それとも嫌がるのだろうか。
 私の分身であり、夫の分身である、この子。
 私は、どうしても、愛せそうにない。
 誰もいない我が家で、夫の帰りを待つ。その間中、私はずっと怯え続けていた――お腹の中の「異物」に。


 夜。
 ただいまの声と共に、夫が帰ってくる。
 「お帰りなさい」
 いつもの声で、笑顔で、私は彼を迎えた。彼も軽く微笑む。
 「あのね・・・話が、あるの」
 靴を脱いだばかりの夫に、話を振る。早く、全てを打ち明けたかった。恐怖から逃れたかった。
 「何だい、いきなり」
 彼は少し驚きながらも、私の声の深刻さに気付いてくれたようであった。
 「子供が・・・できたみたい」
 そう言った私の顔は、きっと笑顔ではなかったであろう。
 だけど、彼は。
 「子供・・・本当?」
 とびっきりの笑顔で、そう問い返してきた。
 予想外、ではなかった。しかし、その笑顔は、私の胸を余計に締め付けて。
 「ついに僕もお父さんか。何だか照れ臭いね」
 名前は何にしようか。いやその前に男の子かな、女の子かな。僕もできるだけたくさん産休貰うからね。
 ――彼は、本当に嬉しそうに。
 「我が子」を、祝福した。
 私は、何故か。
 苛々した。
 ああ――そうか、これは「嫉妬」だ。やがて産まれるこの子に、彼を奪われてしまいそうだから。私は自分の子に嫉妬しているのだ。
 祝福されればされるほど、私はただの「母体」になっていく。子供が中心になっていく。
 私はきっと、誰かに否定して欲しかったのだ。
 だけど、そんな望みは叶うはずもなく。
 両親に連絡しても、答えは同じであった。
 「おめでとう」
 繰り返される言葉に、私は軽い吐き気をおぼえた。
 そして、この思いは誰にも告げてはならないのだと感じた。


 世界は、私に「母であれ」と強要する。
 子を産み、育むことは人間の使命であり、それは何物にも勝ると。
 母性は敬われ、女はそれを持つことで初めて「女」とみなされる。
 私には――そんなもの、全く理解できなかった。
 何故子を作ったのかと問われれば、「作った」のではなく「できた」のだ、と答えるしかない。
 私にとっての性交は、「子供を作る」ことではなく「愛情表現」だったのだ。
 愛しているから、求める。より深く、より強く。
 何度でも、私は彼を求めた。彼もそれに応じてくれた。たまらなく――嬉しかった。幸せだった。
 要するに、私のアタマには性欲はあっても母性はない、ということだ。
 だからそんなもの理解できるはずもないし、したくもない。
 無責任だったことは認める。馬鹿だったと思う。しかし、そうまで祝福されて・・・夫にまで喜ばれたら、堕胎するわけにもいかなくなってしまうではないか。
 世界は、私に「母であれ」と強要する。
 私に選択権はない。
 彼を愛するあまり、盲目になり、無責任な行動を繰り返した結果――つまり、これは私への罰なのだ。


 「お腹、もう随分大きくなったね」
 私のお腹を優しく撫でながら、夫が言う。
 臨月を迎え、彼は産休を取ってくれた。そして毎日家事の手伝いをしては、このようにお腹を撫でるのだ。
 醜く腫れ上がった私の腹は、彼にとって愛しくてたまらぬものらしい。
 否。愛しいのは腹ではなくその中身か。
 笑顔を崩さぬまま、そんな事を考える。
 私は既に、胎児の入れ物と化しているのだろう。
 愛してくれなくなったわけではない。しかし、最も大きな愛情を受けるのは、もう私ではない。
 嫉妬は、ますます大きくなって。誰にも言えず行き場をなくした思いは、私をゆっくり狂わせる。
 挙句、もうじきこの異物は、私の腹を喰い破り、外へと出ていくという。その際に伴う痛みは尋常ではないらしい。
 どうして――どうしてそこまでされなければならないのか。
 罰とはいえ、私はそれほど悪いことをしたのだろうか。
 私はただ、彼の全てが欲しかっただけなのに。
 愛することは、愛されることは、そんなにいけないことなのだろうか。
 コンドームを付けて、ピルを飲んで・・・避妊して。確かにそうすれば良かったかもしれない。しかし、どうして愛し合うことにそんな制限をされなければならないのだろう。
 直接触れ合いたい。何にも影響されず、本当に一つになりたい。
 そんな一途な思いは、こんなにも大きな罰を与えられるほどの罪なのだろうか。
 人間であるが故の、悲しみ。
 私は、私達は、人間である前に生物なのだ。
 その事実からは、逃れようがない。
 所詮、愛情というのは人間が作り出した幻想。マヤカシなのだ。
 そんな詭弁に踊らされる方が悪い。つまりはそういうことか。
 だけど――。
 私はそれでも、彼を愛している。この思いだけは譲れない。神様にだって、否定させはしない。
 お腹を撫でる彼の手を取り、私はその頬にキスをする。
 喜びじゃない涙が、私の目から溢れ出した。
 「どうして、泣いているの?」
 困った顔をして、彼は一言そう呟いた。
 そして、私は。
 「何でも・・・何でもないのよ」
 私は、初めて――彼に嘘を吐いた。


 ああ、どうか。
 産まれ来る我が子よ、せめて私を殺さないで。
 私は貴方を愛してあげることはできないけれど。
 私は貴方を憎み続けるだろうけれど。
 どんな怪物に育っても、私と彼を殺すことだけはしないで。
 お腹の中の異物に、そう語りかける。
 びくん、と、内部が振動する。
 ああ、胎児が嗤っている。
 いつか、私を殺そうと。愛をくれない私を殺そうと。
 声を上げて、嗤っている。
 私じゃない私。
 たとえ世界が祝福しても、私は貴方を恐れ続ける。憎み続ける
 いっそ、今貴方を殺してしまうことができれば楽なのにね。


 「おめでとう」
 信じられない激痛の中、そんな声が聞こえた。
 そして響く、けたたましい鳴き声。
 本当の苦しみは、ここから始まるのだと思った。


 「おめでとう」



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