その少女には、名前がなかった。
否、無論、日本人である以上、戸籍上の名前はある。
但し、現在の遠野輪廻という名は、既に4つ目だった。
ひとつ前は海鳥美汐、更にその前は八栞鈴香――。
最初の名前に至っては、覚えてさえいない。
全てが等しく本名と言えるものだろう。
だがしかし、僅か14年の人生において、4つもの「本名」は――多過ぎて、重過ぎた。
更に付け加えるならば、それらの名前のひとつとして、まともに呼ばれた記憶はない。
故に、彼女は名前を持たないと断言して差し障りなかった。
その少年は、ごく普通に生まれ育った。
富豪の家に生まれたわけでもなく、生活に困るほどの貧困を味わったわけでもなく、
特別に運動能力が優れていたわけでもなく、身体に障害を抱えたわけでもなく、
天才・秀才と称えられたわけでもなく、愚か者と貶されたわけでももなく。
可もなく――不可もなく。
強いて言うならば、少しだけ人に優しく、少しだけ自分に厳しい。
そんな、どこにでもいるような少年だった。
少女は、14歳。
少年は、13歳。
少女は、生きるために平凡を装っていた。
少年は、平凡にしか成り得なかった。
だから。
「転校生の少女とそのクラスメート」という二人の出会いは自然なものだったし、
違和感を持つ人間などいるはずもなかった。
はじめまして、と声をかけたのは、遠野輪廻の方からだった。
「・・・ハジメマシテ」
ぶっきらぼうに、少年は返した。
思春期の少年らしく、意味もなく照れているのは明白だった。
輪廻は、そんな隣の席の男子を可愛いなと思い、ふふふ、と微笑った。
彼女は、不思議と少年に惹かれていった。
平凡で、ありきたりで、普通な彼が、羨ましかったのかも知れない。
ただ単に、その可愛らしい容姿が好みだったのかも知れない。
理由を詮索することに、きっと意味などない。
しかし、異常な生い立ちを持つ輪廻にとっては、重要なことだった。
自分は、特別である。
3度も名前が変わるなど、普通であるはずがない。
いや――通常、苗字が変わることはあっても「名前」が変わることなどそうはない。
そのような常識を身に付けた頃、自らがいかに異分子であるかを改めて思い知った。
勿論、その異常性はマイナスに働くものであるし、関われば他人にも影響を及ぼす。
それも、かなり直截的な形となって。
そんな自分が、何故他人を好きになどなるのか。
自分自身に腹が立ち、呆れてしまう程であった。
分かっている。
自分は、自分を取り巻く全ては、異常だ。
せめて、他人に迷惑をかけないこと――自分にできることは精々その程度なのだ。
そう考えて、輪廻は自らの気持ちを押し殺し続けた。
それは、これまでに受けたどんな拷問よりも、辛いものだった。
痛いことには慣れているはずなのに、何と情けないことだろう。
――と、彼女は毎日苦悩し続けるのだった。
そんな輪廻の悩みには当然気付けないものの――少年もまた、少女に惹かれていた。
同年代とは思えない、憂いを帯びた佇まいが、何故か気になった。
放っておけなかった。
意味も分からず、助けなければ、力にならなければ、と思った。
だからそれは、あるいは一般的な恋心とは少々違っていたのかも知れない。
しかし、考えの辿り着く先は大差ないようであった。
とはいえ、年頃の少年に、大それた行動を起こすことなどできるはずもなく。
結局は、お互い当たらず障らず、ただの級友を演じ続けていた。
そして、ある意味一触即発とも言える関係を崩したのは、少年の方だった。
「――友達の友達から、聞いたんだけどさ」
くだらない噂話、古典的な学校の怪談――眉唾物の、都市伝説。
口裂け女。
人面犬。
トイレの花子さん。
学生の間、当たり前のように、そして病的に流行するそれらの物語は。
少年にとって、話しかけるために都合の良い口実であり。
少女にとって、命さえ脅かす憂鬱の元凶であった。
「旧校舎にある音楽室のピアノ、夜になると誰もいないのに鳴り出すんだって。
有り得ないと思うよね――俺もそう思うよ、遠野さん。
でも、その友達の友達は直接聞いたらしいんだ。
何でも、この学校の旧校舎は戦時中から学校として使われていたらしいんだけど、
音楽室では兵隊さん達を送るための歌を歌ってたんだって。
で、ある時――いつもピアノの伴奏をする女の先生の恋人が徴兵されて。
先生は、恋人と一緒に逃げ出したんだ。
でも、二人はあっさり捕まって、更に国賊として殺されてしまったんだってさ。
それ以来、夜中になると先生の幽霊がピアノを弾いて恋人を呼んでるんだとか」
本当なの? と少し怖がってくれればそれで良かった。
いや、つまらない、と失笑してくれても良かった。
しかし――輪廻は、
「それ、誰から聞いたの?」
と、予想外に食いついてきた。
「いや・・・友達の友達から」
少年は、ばつが悪そうに、しどろもどろに答えた。
「じゃあ、その話ってこの学校で有名?」
「あー・・・っと、どうかな。そこそこ、かな」
「ふーん、そう・・・」
そこで、話は途切れた。
しくじったと思った。フォローしなければ、と思った。
だけど、彼女の表情は、今まで見たことがない程に険しく、苦しそうで。
それ以上深く関わることを拒絶するかのようだった。
だから少年は、最後まで――その話を創作したのは自分だと、言い出せなかった。
そして翌日、輪廻は学校を休んだ。
嫌な予感がした。
背筋が凍った。鳥肌が立った。眩暈がした。吐き気がした。
何か悪いことが起こったのだと、直感した。
放課後、担任の先生から住所を聞き出すと、少年は輪廻の家へと向かった。
そこは、お世辞にも綺麗とは言えないアパートの一室だった。
呼び鈴が壊れていたのでドアを強くノックしたが、返事はない。
思い切って、ノブを回す。
カギはかかっていない。
もしカギがかかっていたら――テレビドラマのように、体当たりで壊す気でいた。
それほどまでに、強く確信していた。
そして、案の定。
部屋には、血まみれで横たわる輪廻がいた。
死んでいると思った。
言葉もなく駆け寄り、顔を覗き込む。
荒い息が聞こえた。
――生きている!
それだけで、奇跡のようだった。
「ああ・・・君か。いらっしゃい」
うっすらと目を開けると、小さく微笑んで輪廻はそう言った。
「いらっしゃい、じゃないよ! これは、一体どういう・・・」
「うん、まぁ、話すと・・・長くなる、んだけど、さ」
「とにかく病院に!」
「無駄だよ」
――びくり、と全身が震え、硬直した。
その声色は冷たく、その言葉の意味はあまりにも絶望的だった。
「ふふふ。ねえ、どうして、君は・・・ここに来たの?」
「いや・・・今日、遠野さんがお休みだったから。何かあったんだって思って」
「ふ、ふふふ。そうか――不思議だね、不思議だねえ」
そして、輪廻は、ポツリポツリと、語り出した。
昨日の夜の出来事について。
都市伝説から生まれる、怪物について。
そして、その怪物を生み、殺し、操る存在について。
「私は、それを、殺す人間だったんだ」
「そんなこと、急に言われても・・・分からないよ」
「うん、そうかもね・・・でも、ごめんね。私の最後のわがまま――
今だけでいいから、この話を信じて。フリで・・・構わないから・・・」
「う・・・ん」
少年は、戸惑いつつも頷いた。
輪廻は、続ける。
自分の特殊な生い立ちについて。
今までの戦歴について。
そして、今回の敗戦について。
「いや、厳密には――負けてないのよ? 引き分け、かな・・・。
怪物はやっつけた。でも、私も・・・もう、ダメっぽいね・・・」
「そ、そんなことは」
だが、少年はどこか理解していた。
血まみれの少女が、決して助かることなどないことを。
「最後に」
震える唇で、輪廻は懇願する。
「私に、名前を、くれないかな」
「・・・名前」
「そう、名前。ナマエ。なー、まー、え・・・」
人の枠から外れた少女が、人であったことの証。
生きていた証。
そして、これからも、少年の胸の中に存在し続ける証。
それはもはや、傷跡と言っても過言ではないけれど。
「おかしいな、と思ってた。私は・・・多分、遠野輪廻なんて名前じゃない」
だから、本当の名前を、付けて欲しい。
――言葉の意味は、分からない。しかし、気持ちは分かる気がした。
少年は、考える。
名前。
ナマエ。
なまえ。
少女に似合う、可憐で、強かな――。
「――×××××」
その、新しい「名前」を聞いた少女は。
嬉しそうに微笑んで。
そっと、両目を閉じて。
薄く、少年に語りかけた。
「ありがとう、夕月・・・明くん。いや、語り部くん、かな」
そして、少年は。
夕月明は。
数年をかけて、少女の遺言の意味を知り、彼女が自分のせいで――
お遊びで創作した物語のせいで死んだことを知る。
彼の時間は、そこで凍りつくが――それからの出来事は、また別の物語。
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